ビジネスロー・ダイアリー

中年弁護士の独り言兼備忘録

ネコは政治家になるのかー「22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」の雑感

これまでは司法修習生は何を勉強すべき?というエントリーを書いていたが、今日は趣味的に本の読書感想文を書いてみたい。紹介する本はこちら、成田悠輔氏の話題の新刊「22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」である。

成田悠輔氏の紹介は私がする必要もないだろう。決して恵まれているとは言えない家庭環境から、麻布中学・高校を卒業し、東京大学に入学。東京大学では経済学論文の名誉ある賞である大内兵衛賞を受賞。その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)でPh.D.を取得し、現在はアメリカでイェール大学の助教授をしながら、会社経営もしているというスーパーマンである。

この本の内容としては、私のような彼のファンからすると、成田氏がメディアで断片的に発言している内容を分かりやすくまとめたという内容だ。豊富な脚注から明らかなように、彼の主張はこれまでの研究に支えられており一定の根拠をもっていることが本を読むことでよく分かった。

簡単に彼の主張を復習すると、概要以下のような内容になるだろう。近年、人類は民主主義と資本主義という二つの相反するシステムを利用して発展してきた。しかし、主に民主主義とSNSの相性の悪さが原因となり、民主主義が機能不全に陥っている。そのため、ある者は選挙のデザインを変えることで民主主義を改良しようとしており(民主主義との闘争)、ある者は国家の主権の及ばない場所で自らの「国」を作ることで民主主義から逃走しようとしている。これらの試みは成功している面もあるがそうでない面もある。しかし、これらはいずれも民主主義が持つ弊害を解決するものではない。そこで、成田氏が主張するのが「無意識民主主義」だ。無意識民主主義では、まずは膨大なデータから民意をくみ取る。選挙はそのようなデータの一つになる。ここでいう民意とは具体的な政策決定というより、価値判断のための軸という意味に近い。そして、この価値判断(民意)に基づき政策が決定されるのであるが、具体的な政策内容は過去のデータに基づき決定される。このように現在の選挙の役割はアルゴリズムに取って代わられるようになる。そして、上記の過程においては国のデザインを決めるという政治家の役割は不要である。残る政治家の役割はマスコットキャラクター/サンドバックとして役割であるが、これはVtuberでも猫でもゴキブリでも代替可能であるはずだ。このようにして、「選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる」のだ。

(成田氏の主張をまとめてみると、彼の主張がいかに論旨明確で、そして筋の通ったものであることを改めて思い知らされる。。彼がおもしろコメンテーターということでメディアで持てはやされているだけでなく、アカデミックの世界でも認められている理由がよく分かる。。)

さて、ここからがお恥ずかしながらの凡人の感想だ。無意識民主主義のコンセプトはよく分かるし、成田氏の主張を読んでいると、それが現実的な未来であるように思える。成田氏の主張のような抜本的なものかは分からないが、今後、「選挙はアルゴリズムになる」だろう。しかし、「政治家はネコになる」のか?私はその点に興味がある。

成田氏の主張は、現代の社会では区別をすることを否定的にとらえる傾向が強くなっていることから、今後人間と他の生物を区別する時代がくると予想している。そして、これが「政治家がネコになる」根拠の一つとなっている。成田氏の指摘のとおり、マスコットキャラクターとしての政治家は既に動物にとって代わられた例がある。しかし、政治家のもう一つの役割として(本人の指摘しているような)サンドバックの役割としての政治家が近未来のうちにネコにとって代わられるだろうか。

成田氏は、今起こっている事象として政策失敗の責任を政治家がとっていないことを理由に、この役割はネコでも(ゴキブリでもVtuberでも)担えると主張している。しかし、サンドバックとしての役割の政治家は、責任をとる・とらないの話の前に、社会の批判の対象となり社会のガス抜きの役割というのもあるのではないかと思う(念のため付言するが、これは行き過ぎては当然いけない)。この役割は、例えば、タレントやYoutberが担えるという指摘もあるかもしれないが、「私の生活がよくないのはあなたのせいだ」という普遍的で根源的な怒りの矛先をタレントやYoutberに向けるのはお門違いだろう。

これと同様に、政策決定に関与していないネコを批判することで、国民の怒りのガス抜きはできるのだろうか。無意識的民主主義が実現したとしても、どこかで取り残され、彼らの彼女らの生活に不満を持つものがいる。その不満の矛先にネコはなりうるだろうか?ネコに対して、その不満をぶつけてカタルシスを得る人はなかなかに想像できない。ネコは政策決定をしていないからだ。これは、人間は、意思決定者と違うモノを批判することガス抜きをしたり、又は「誰の責任でもない」という状況を耐えられるだろうか、という疑問である。

仮に上記のような人間の意識の変化があれば、この社会は大きく変わるだろう。人間は労働から解放される可能性は限りなく高くなる。例えば、弁護士の仕事もそうだ。私は、少なくとも現在の人間の意識を前提とすれば、どんなにリーガルテックが進んでも弁護士の仕事はなくならないと思っている。なぜなら、リーガルテックは責任をとれないからだ。たとえリーガルテックが出した答えをコピペしたものであっても、弁護士が責任を持ってアドバイスをするからこそ、依頼者はそのアドバイスを依拠できる。依拠とは信頼という意味もあるが、「弁護士に相談した」「弁護士がこう言っていた(ので自分は責任がない)」という責任転嫁又は証拠づくり的な側面もあるだろう。問題が発生したときの責任主体になるというのも、我々の仕事の一部であり、ここはどこまでいってもテックが代替できない(アルゴリズムを作成した会社が事実上そのようなリスクをとれないことを含む)と思っているからこそ、弁護士の仕事はなくならないと私は考えているのだ。しかし、意思決定者以外の者を責任追及することで許され、又は、「誰も悪くない」ことが人間が許容すれば、究極的には弁護士は不要になるのだろう。他の多くの専門家(医者、会計士etc)もそうだろう。

では、上記のような意識の変化は訪れるのだろうか。私はどちらかという懐疑的であり、少なくとも数十年単位ではそのような変化は起こらないと思っている。自動運転の例にして考えると分かりやすいかもしれない。数十年(若しくは十年以内)のうちに自動運転は実用化され、人間の運転よりも安全なものになるであろうが、そのときに「誰も悪くなかった」では済ませれないだろう。自動運転が実用化した場合でもドライバはドライバー席に座ることが義務付けられ、事故の責任を負わされるであろう。仮にそれを乗り越えたとしても、問題が生じたときは、アルゴリズムを作成した会社に対して責任をとるよう訴えるだろう。

つまり、「政治家はネコになる」ためには、意思決定者と違うモノを批判することガス抜きをしたり、又は「誰の責任でもない」という状況を耐えられることが必要となるが、そのような認識の変化が起こるのは難しい思われる。仮に、「選挙がアルゴリズム」になった場合、「政治家はネコになる」のではなく、「政治家はアルゴリズム作成者」になるのではないだろうか。しかし、そのようなリスクを背負ってまでアルゴリズムの作成をしたいと思う人はどれだけいるだろうか?アルゴリズム作成者を隠せばよいではないかというアイディアもあるかもしれないが、そうすると、すぐに陰謀論がささやかれ、一部の人はそれに熱狂し、現状を打破しようとするだろう。

私は「選挙がアルゴリズム」になったら、「政治家はアルゴリズム作成者」になるのではないかと考えているが、シンギュラリティを超えて機械が人間よりも有能であることが明白になったら、人間の認識は大きく変わるかもしれない。アルゴリズムが間違えたのだから仕方ないよね、という感覚が普通の感覚になる可能性も大いにある。成田氏がこの点をどう考えているか是非話を聞いてみたいところだ。